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2010年07月12日

田場盛信の「島の女(ひと)」

田場盛信の「島の女(ひと)」
 私は最近、琉球新報紙上にも「島唄を歩く」という記事を連載している。毎第一第三金曜日掲載で、島唄にまつわる各方面の方々(歌手やプロデューサーなど)を訪ねて、話を聞いて、レポートするものだ。楽しくてやりがいのある仕事だが、飲み屋をしながらだとちと肝臓に響いている気がするのは年のせいであろうか?そう、今回取り上げるレコードは、7月2日掲載のコラム「くんちり道」で書き足らなかった文の補足をしてみたい。というわけで田場盛信歌う「島の女」。東西東西。

田場盛信の「島の女(ひと)」「島の女(ひと)」歌・田場盛信
(マルフクレコードFF-77 1975)
 沖縄の戦後史を語るうえで、日本復帰、そしてそれに伴う経済措置としての海洋博は欠かすことのできない大きな出来事であることはいうまでもない。いわんや沖縄音楽史に於いてもおや、だ。基地のない、戦争のない、平和な島。そして少しでも生活が良くなるようにと願い復帰は実現された。しかし、祖国復帰は名ばかりで、基地は残り、おまけに自衛隊がやってきて、生活は益々もって良くならない。脆弱な経済基盤を少しでも良くしてくれるものと、庶民は「国際海洋博覧会」に一縷の望みを託した。不発に終わった儚い夢はもう、ウチナーンチュは忘れたかも知れない。

 1975年7月19日、沖縄国際海洋博は2000人の観客の見守る中、華やかに開会した。予定より2ヶ月遅れての開幕であった。そのためその期間は繰り越し、翌年の1月18日に閉幕した。当時の金で3千億円もの資本が投じられ、島をダンプがせわしなく駆け巡り、県外からたくさんの人が来て、道路が見る見る整備されていった。町のネオンも明かりが増した。街には歌があふれ、雨後の竹の子のように民謡クラブが増えていったのもその頃。しかし、事件事故は増え、物価はうなぎ登りに急上昇し、公共投資で残ったのは道路と建物ばかりで、材料費や人件費は本土へと逆流した。首切り、倒産、はては自殺と、“海洋博狂想曲”などと新聞でははやし立てた。
 そんな期待はずれの海洋博も終わりに近づいた頃…

時代というものに空洞が生じていた頃、ラジオから流れてヒットしたのが田場盛信歌う「島の女」(作詞・森田豊一、作曲・上地吉雄)だ。日本語の歌詞を民謡の旋律で歌うそのレコードは、島唄であって島唄でない、戸惑いながらも支持されていった。もちろんそれまでも、そういう歌謡調や演歌調の歌はあった。しかしこの歌は違った。もやもやはあってもやっぱり民謡であった。その頃はそんな気がした。後に新民謡の代表とされた、民謡の流れを変えたエポックメイキングな曲がこの「島の女」であった。田場盛信は新民謡というジャンルの騎手的地位を確立していくことになる。

小浜 司の『ryuQ100歌』バックナンバー:
http://ryuq100.ti-da.net/c73392.html

田場盛信の「島の女(ひと)」
筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
島唄レコード百花繚乱 ― 嘉手苅林昌とその時代(小浜司・著)沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)に移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。著書「島唄レコード百花繚乱 ― 嘉手苅林昌とその時代」を発売した。
島唄カフェいーやーぐゎーHPhttp://www.ryucom.ne.jp/users/iyagwa/



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