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2007年09月24日

ryuQ100花・9月号『魔よけ・その二』


旧盆が去り、あの世の蓋が閉まったあとも居残ってしまった「ドンくさい霊達」がウヨウヨするこの時期、悪さをしないように結界をはるのが「柴挿し」の行事です。

旧暦の8月8日から11日の間に屋敷の拝みを済ませ清めた後、ススキで作ったサンに桑の枝を挿すだけの魔よけを敷地の四隅や門、井戸、畑に挿すだけで魔物が寄らなくなるといいます。
昔の沖縄では、集落を見下ろせる丘や木の上に登り、火の玉が村に出没しないか若い男性がシフト制で見張っていたそうです。火の玉が出た家からは死者が出るといわれ、ユタに祈祷してもらい、爆竹を鳴らして死神を祓ったとか。
この期間、各家庭では、仏壇や火の神様の前に赤飯を供え、親ファーフジや神様に体力をつけてもらい「しっかり家族を守ってください」と、うーとーとーしたといいます。

ススキは、イネ科の植物で全国に広がる多年草です。秋の七草の一つでもあります。葉は細長く、ふちが鋭いので手荒に扱うと指を切るほど。こんなところから『刀』を連想させ「魔よけ」に繋がっていったのでしょう

最近、東京の友人に『マブヤー込め』をするのでススキを送って欲しいと頼まれました。何でも、東京でススキを探すのは至難で、花屋に行かなければならないそう。時は8月。花屋にサン用のススキを求めに出かけたものの「シーズン物なので市場にもまだ出ていない」と、言われたとか。確か、多年草のはず。何で、シーズン物なのだろうか?世界の中でも四季の情景を楽しむ民族のはずなのに。こんなつまらないことを考えながら、一歩外に出るとあるわあるわススキたち。ナンカうれしくなっちゃいました。沖縄って最高!

大量のススキを東京に送った後、改めて近所を見渡すと、明らかに一昔前よりススキが減っている。
あれ、いつの間にコンビニが?
へっ、ここに、道があったっけ?

人間って砂漠に大金をかけて植物を植える一方、茂る植物を排除していく。この矛盾って一体……年がバレちゃうけど、「東京さばくぅ〜」のフレーズがこだまします。

幸いか、沖縄には、各集落に神が鎮座する『御嶽』があります。街の喧騒のなか、手を付けられずに残る小さな自然があるのです。
沖縄の人はその自然の神々に畏怖の念を抱きながら敬神してきました。
その結果、街でありながらところどころに深い緑を残すことができたと言われています。「御嶽」は、街の空気清浄や冷却機能に役立ち、本当の意味での「人間達の守護」になっています。今世の魔物は、化け物でも幽霊でもありません。
人工的な魔物なのです。植物を初め、自然という『魔よけ』をもう一度考え直してみませんか?

プロフィール:比嘉淳子(ひがじゅんこ)

2児の母。すっかり“沖縄のおばぁ”的存在になりつつあるこの頃。
『沖縄オバァ列伝・オバァの喝!』『オジィの逆襲』(双葉社刊)、『琉球ガーデンBOOK』『よくわかる御願ハンドブック』(ボーダーインク社刊)、『琉球新報・うない』『琉球新報・かふう』のほか、新刊『沖縄オバァ列伝・オバァの人生指南』(双葉社)が発売中。


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2007年09月17日

嘉手川学のryuQ100味[9月号]


八月十五夜は中秋の名月。そこで一句。「名月にウサギ 食べるはフチャギかな」

 名月を詠ったわりにはちょっと寸足らずな内容になったが、ちゃんと五・七・五になっているので勘弁願いたい。って、誰の勘弁してもらうつもりなのボクは……。

 ま、そんなことはさておいて、もう9月である。

 あの、狂気(凶器)なような猛暑、酷暑が続いた7月や8月に比べれば、9月の暑さは、暑さの中に少しだけやわらかな空気が混ざり、横暴だった夏の暑さが少しずつおとなしくなる、そんな感じの暑さでもある。
 9月といえば17日の「敬老の日」と23日の「秋分の日」が一般的な祝日ということになっているけど、沖縄の年中行事では旧暦8月8日(今年は新暦の9月18日)に88歳の長寿を祝う「トーカチ」が行われる。八十八歳といえばいわゆる米寿の祝いのことであるが、本土での米寿に祝いがどういうもものか知らないけれど、沖縄のトーカチはバーキと呼ばれる平らな籠や木製のタライに八升八合(地域によって異なるけど)の米を盛り、そこに八寸の竹製斗掻き(とかき)差して飾り立て、お祝いに来た人にその斗掻きを配る行事である。ちなみに斗掻きとは枡に入った米や穀類を計るときに枡の縁に合わせて平らにする道具のこと。その斗掻きにトーカチを迎えた本人の名前と「寿」の文字が書かれており、斗掻きを貰うことで長寿にあやかるという儀式である。この日に食べるものは特に決まっていなく、とにかく祝いに駆けつけて人にクヮァッチー(ご馳走)を大盤振る舞いするのが慣わしである。

 また、旧暦8月9日から11日までの3日間は「シバサシ(柴差し)」と呼ばれる物忌みの行事が行われる。旧暦の8月になるとマジムン(幽霊や妖怪、魔物の類)などのヤナムン(悪霊や悪いもの)が村々を徘徊するため、ススキを桑の枝に結びつけた「シバサシ」または「ゲーン」と呼ばれる魔よけを作り、門や家の四隅、庭や軒先、カマドや田畑などに差し魔を払う行事で、仏壇やヒヌカン(火の神)、神棚にカシチー(小豆入りのおこわ)を供えて家内安全を願った。ボクが子供のころは那覇に住んでいるボクの家や近所でも普通にシバサシが行われていたが、沖縄が本土に復帰する前の建築ブームで、どの家も鉄筋コンクリートの2階建ての家になったとたんなぜか行われなくなった。

 で、シバサシの時には何を食べたかというと、仏壇に供えたカシチーを食べたのである。カシチーはシバサシのときだけではなく、結婚式や正月などお祝いの行事よく出るので、特別食べたい料理ではないが、あると嬉しい料理(というかご飯だけど)でもある。

 では、ボクが紹介したい旧暦8月の行事の食べ物はなにかというと、それは旧暦8月15日に行われる「八月十五夜」で食べる「フチャギ」である。

 旧暦8月15日はご存知のとおり中秋の名月で、一年のうちで最も月が美しい季節である。沖縄ではこのころ、月光の下「村芝居」や「八月遊び」「村踊り」「十五夜遊び」「豊年踊り」と地域によっていろいろな名前で呼ばれる、豊作を神に感謝するともに村人が祝う祭りが行われる。そして十五夜の日にはヒヌカンや仏壇、神棚に「フチャギ」と呼ばれる小豆をまぶした餅が供えられるのである。

 実はこの「フチャギ」、ボクは子供のころから大好きで、八月の行事の食べ物は「フチャギ」だけで充分だと思うくらいである。


 「フチャギ」はモチ粉をこねて俵型というか厚めの小判型に形を整え蒸して、塩茹でした小豆をモチが熱いうちにまぶしたもので、昔はボクの家でもお袋が作っていたが、今では十五夜の時期になるとスーパーやお店などで売られるようになっている。かつては神仏に「フチャギ」を供えることで五穀豊穣や豊作に感謝し、次の年の豊作を願ったという。
ボクはフチャギの塩茹でした小豆が大好きで、仏壇に供えられたフチャギの見えない底の部分の小豆を全部つまみ食いしてお袋に叱られたこともあった。フチャギはそのまま食べると味があまりないので、ボクは砂糖をかけたり砂糖醤油をつけたりして食べるのが好きだった。今とは違い、行事のお菓子はその時期にならないと食べられなかったので、子供のころは十五夜のフチャギが一年に一回の楽しみでもあった。

 しかしよーく考えてみると、実はボク、モチはあまり好きではないのである。

 中学生のころまでは確かに好きだったけど、高校のときに3カ年間、毎年クリスマスの翌々日から大晦日まで和菓子をやっている同級生の家で、伸し餅や鏡餅など一日に何百個も作るバイトをしたことで、モチを敬遠するようになった。朝7時から夜10時ごろまで15時間労働で、おやつや間食にモチの食べ放題と甘い言葉に乗せられていうバイトをしたのである。以来、ボクはモチはあまり好まなくなった。それでも、フチャギだけは今でも何とか食べるのは、ボクは何よりも豆類が大好きで、豆の入ったものなら料理でもお菓子でも好きだからである。

 だから、ボクがフチャギ好きなのは、モチが好きだからではなく、豆好きだから食べていたのであった。ちなみに、小豆アンに包まれたオハギやボタモチもケッコウ好きである。

 旧暦八月の行事料理は誰がなんといおうと「十五夜」に食べる「フチャギ」である。


筆者プロフィール:嘉手川 学(かでかわまなぶ)
フリーライター、沖縄県那覇市生まれ。沖縄のタウン誌の草分け『月刊おきなわJOHO』の創刊メンバーとして参画。沖縄ネタならなんでもOKで特に食べ物関係に強い。現在も『月刊おきなわJOHO』で食べ物コーナーを15年以上掲載中。
著書、編著、共著に『沖縄大衆食堂』、『笑う沖縄ごはん』、『泡盛『通』飲読本』(各双葉社)など多数ある。今年になって共著で3月に『沖縄離島のナ・ン・ダ』(双葉文庫)と『もっと好きになっちゃった沖縄』(双葉社)、5月には『沖縄食堂』(生活情報センター)が発売。
  

2007年09月10日

小浜司の『ryuQ100歌』9月号


沖縄のエイサーは旧暦の七月十三日〜十五日、いわゆる旧盆のウンケー(お迎え)中日、ウークイ(お送り)の三日間の奉納エイサーや道ジュネ(巡回)が、純で素朴で民俗的である。昨今、エイサーの芸能化が進み、共同体の儀式としてのエイサーから、観光のための、経済効果としてのエイサーへとなりつつある。
それの良し悪しや功罪はここでは問わない。ここに三枚のシングルレコードがある。「七月エイサー」と、タイトルされている。三十年以上前の音源である。かつては単にエイサーではなく、七月エイサーといっていたことがわかる。音楽鑑賞の商品としてのレコード音源であり、そのダイナミックな演舞はもちろん、地謡の魅力も楽しみの一つとして鑑賞していたといえる。

七月エイサー/玉城安定民謡研究所
(マルフクレコードKF-55)

一枚目の故玉城安定率いる玉城安定民謡研究所の演じるエイサー。わずか四分程度のエイサーだが、雰囲気はよく出ていて、演奏が始まったとたん身を乗り出して踊りたくなるような演奏だ。長年七月エイサーという行事にたずさわり、踊り手のリズムも呼吸も知り尽くしている地用はコンパクトにまとめられていても十分楽しめる。曲は「仲順節」「久高まんじゅう主節」「スーリ東」「唐船どーい」の四曲。

七月エイサー/山内昌徳民謡グループ
(マルタカレコードTES-1011)

二枚目は山内昌徳民謡グループ。かつてはその甘い美声で女性を虜にした山内昌徳の四十年前の音源。A面B面の二面に渡っての七月エイサー。A面に「仲順節」「久高まんじゅう主節」「ピーラルラー節」。B面に「トゥタンカニ」「スーリ東」「唐船ドーイ」コザ(沖縄市)のエイサーの芸能化はここらあたりから顕著となっていったのではないか。

七月エイサー/嘉手苅林昌、知念禧 ゴモン合唱団
(ゴモンレコードGS-47)

三枚目の七月エイサーは大太鼓の音をより強調した、現代風に近い雰囲気に仕上げている。知念禧の地謡ヴォーカルで始まり、何だか地方の雰囲気を十分に醸し出しているところに嘉手苅林昌の「サフエン節」にバトンタッチ。踊りというより唄に引きずり込まれるような感じだが、唄と伴奏とのバランスがいまいち地方的、というところも良しとしよう。

かつてはこれらのレコードを手本としてエイサーの奏法を必死になって練習していた。


筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。
島唄カフェいーやーぐゎーHPhttp://www.ryucom.ne.jp/users/iyagwa/
  

2007年09月03日

市場<マチグヮー>を巡る構想17年


『沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌 シシマチの技法と新商品から見る沖縄の現在』
小松かおり著(ボーダーインク刊)

 一冊の本が出来上がるまでどのくらいの日数がかかるのか。うちの会社では、四六判で200頁くらいの本だと、だいたい原稿があがってから、三ヶ月から半年くらいというのを目安にしている。ここでいう原稿とは、ほぼ完成原稿のことをさす。まぁ実際はそれぞれの本によって事情が異なるので、あくまでも目安でしかないけれど。

 しかしどのような原稿に仕上げるのか、その構想の時点から、実は本造りはスタートしているわけで、いわゆる「構想●年」というやつだ。まぁ現実は「妄想●年」の方が多いが、その妄想の中から一つでも企画が成立すれば編集者も読者も幸せである。

 というわけで今回ぜひ紹介したいのは、僕にとって「構想17年」の企画であった『沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌』小松かおり著、である。先月末に出来上がったばっかりの本だが、話は1990年までさかのぼる。

 当時僕は『Wander』というシマーコラム&マガジンの創刊号を準備していた。そう昔から一貫して「コラム」にはこだわりを見せていたのだが、同じくらい「インタビュー」でも、沖縄のさりげない断面を切り取りたいと思っていた。例えば「タコライスが故郷の味」という名言を残した地元女性アナウンサーのインタビューみたいな感じである(これは多分メディアでちゃんと「タコライス」について記された初めての記事だとおもうぞ)。そんな時、大学生の知り合いから、「市場の肉屋で働きながら市場のことを調べている、大学院生がいる」と聞いて、こりゃ面白そうだとさっそくインタビューしたのだ。その時出会ったのが、小松かおりさんだった。

 結局「私も肉屋のお嫁さん、欲しいなぁ」というタイトルのそのインタビューは、『Wander 創刊あがぁ号』に載った。この一言は、一日十三時間市場の中でおばちゃんたちと一緒に働いての感想である。彼女は、市場に行き、いきなり飛び込みで「働かせて下さい」と頼んんだら、店のおばちゃんはすんなり「いいよ」と受け入れてくれたのである。

 市場は自分の予想以上にすごくおもしろいと、小松さんは語っていて、僕なんかが知らない牧志公設市場の商売の技法を観察し、そして売り手のプロと買い手のプロのコミュニケーションのあり方から、沖縄の食文化の断面を切り取ろうとしていた。

「それがね、おもしろいんだけど、(店のおばぁちゃんたちは)お客さんの住所、職業、家族構成を全部インプットしている。だから、注文するでしょ。そしたら、三枚肉とか言ったら、量を指定しないんですよ。「どれくらいかねぇ」って聞くことも多いけど。聞かないで、ポンっとのっけちゃうの」(wander創刊あがぁ号 インタビューより)

 売り手と買い手の濃密な関係性を表す場としての市場がそこにはあった。売り手のプロと買い手のプロの、豚肉に対するこだわりのせめぎ合いと親和性は、聞けば聞くほど面白い内容だった。豚肉を選ぶことは沖縄の食文化の神髄だったわけだ。

 その当時、牧志公設市場と平和通り一帯は、ストリート・ジャズ・フェスティバルをやったりして、新しい話題もいろいろ話題があった。もともと僕はその近辺育ちなので、あんまり地元の若い者に注目されていない市場の魅力を再発見するという視点で、市場の本を作れないかなぁと考えていたが、なかなかうまく構想が立てられなかった。だから、小松さんのインタビューをまとめながら、こういう本だったらいいよなぁと……と思っていたかどうか。今となって分からないが、実はずっと気になっていたインタビューだったのだ。

 その後彼女は市場をネタに修士論文を仕上げ、人類学者として、アフリカやバナナなど、フィールドを世界に広げる研究者となった。今は静岡大学で准教授として教鞭をとっている。そして2000年になり、久しぶりに牧志公設市場に訪れて、市場の変化に驚いたのである。

「コマの配置も売っている人もほとんど変わらないのに、商品と買い手はずいぶん変わっていたからである。目立つ位置に置かれている商品は、以前は売り場の隅にひっそりと置かれていたか、もしくはもともと存在しなかった商品である。市場を歩いている客も、以前は地元客が多かったが、圧倒的に県外からの観光客とおぼしき人が多い」(『沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌』「第一牧志公設市場の不思議」より)

 ふたたび本格的に市場についてのフィールド・ワークを始めることになった小松さんは、その頃また僕とも連絡を取るようになった。小松さんは、今回の研究のねらい目についていろいろ話てくれた。市場の変化について、アグーや海ぶどう、島バナナなどの市場で特徴的な沖縄の商品の流通と背後にある物語、そしてそれを通して見えてくる沖縄イメージについて、その切り口は、その後も市場の本を作れずにいた僕にとっても魅力的だった。その直後の「ちゅらさん」ブーム、「9.11」の観光的影響などもあって、市場の変化は続き、関係ないのかあるのか、『wander』は十五年目にして、終刊となった。その間、結局、市場特集はしなかった。

 2000年から始まった調査は断続的に2005年ころまで続き、いくつかの論文がまとめられた。そして1990年からこれまでの、小松さんが書いた市場に関する論文をベースにしつつ、沖縄県産本の一般的な読者(研究者各位から三枚肉を選ぶお客、そして市場を観光地として思えなくなった層まで)にもわかりやすく展開する構成を、僕は小松さんに提案し、単行本としての原稿の整理、書き下ろし、さらなる調査が始まった。

 こうして1990年、2000〜05年、そして07年の今年と、断続的に続いたフィールドワークの成果がよくやく一冊の本としてまとまったのである。

 僕としては、あの17年前にやったインタビューのノリを再現するような気持ちで編集作業を行った。そして小松さんと相談して決めた帯の文句はこれである。

「市場へ行こう」

 そう、結局はそこから、始まったのである。

プロフィール:新城和博(しんじょうかずひろ)
沖縄県産本編集者。1963年生まれ、那覇出身。編集者として沖縄の出版社ボーダーインクに勤務しつつ、沖縄関係のコラムをもろもろ執筆。著者に「うっちん党宣言」「道ゆらり」(ボーダーインク刊)など。
ボーダーインクHP:http://www.borderink.com/
  

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