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2007年05月11日

『東に植えている植物』


沖縄の方言で「東」は、「あがり」。日が昇ることを指しています。

で、朝日のことを「あがい(昇る) てぃだ(太陽)」といい、目覚めのお茶を朝日に向け一拝した後、日々の感謝と今日の安泰を祈願しながらいただきます。東の方角はその位崇高な方角とされ、一家の出世の方角とも成功を司る方角ともされています。漢字も、木の間に日が昇る様をイメージし『東』。高木を植えて暗くすることを嫌いました。

我が家の庭には、東の方角に「さつき」と「銀梅花」が植えてあります。

「さつき」は文字通り5月をいい、沖縄の一番良い季節に色とりどりの花を咲かせ、昔から親しまれてきました。

「さつき」と「つつじ」の違いをよく聞かれますが、園芸的に昔から「つつじ」は、春に咲くもの。「さつき」は、初夏(旧暦5月ごろ)に咲くもの、で区別していたようです。最近は、「つつじ」はヤマツツジやミツバツツジの仲間の総称で、特定の種類をいうものではなく、「さつき」は、関東地方以西と屋久島の川岸に自生するツツジの1種をいうようになりました。

太陽のように明るく咲く「さつき」は、家の繁栄を招くといわれています。
酸性土を好みますから沖縄の土壌でよく育ちます。そして、日の光も大好きですから、お日様の光をたっぷり浴びせて育てることが重要です。

写真はピンクの花ですが、「白琉球」という品種は、満開になると雪山のようになり、ほのかに香るおしろいのような甘い香りはノスタルジックな気分になります。白い花が清楚なうちなー美人と彷彿とさせてくれます。

「銀梅花 ぎんばいか」。別名「ミルタス」「マートル」とも言います。
ヨーロッパでは、花嫁の髪飾りやブーケに使われ、「祝いの木」ともいわれています。

6月に花をつけるので今回は葉だけの紹介になりますが、大きな梅のような花をつけます。無数につけるおしべがまるで「銀の線香花火」のように美しく、フルーティーな甘い香りも魅力的です。秋につける実はブルーベリーのような形をしており、味はほんのり甘く鳥が好んで食べに来ます。たくさん収穫できたときにはジャムにして保存します。常緑の葉からも「りんご」のような甘いかおりがし、ハーブピローや室内の芳香剤として用いられます。写真のような斑入りは、庭を明るくし、他のカラーリーフとのコントラストで庭に立体感を出します。花の無い時期も楽しめるのでおすすめです。

暖かい気候を好みますから、沖縄では露地栽培が可能です。
我が家の庭の東側は、「さつき」の株元にこの「祝いの木 銀梅花」を植えてあります。

口の悪い友人に「(由来の)効果はどうよ?」と聞かれますが、「効果絶大!」と答えています。
だって、家族皆健康で争いごとも無く、いつも笑っているから。

即効性はありませんが、花を愛でる心のゆとりを持てば、どんな難事も解決できるジンブン(知恵)がつくというもの。植物を育てることで慈愛の精神が育ちますし、道行く人が気持ちよく通り、知らない人とも花を通して会話が弾む。老若男女、こうして「和」をとれば『祈願成就』なんて屁の河童です。その証拠に、うちではご祝儀袋の往来が盛んですから。  
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2007年05月08日

ユッカヌヒーのチンビン・ポーポー、グングヮチグニチのアマガシ


今回で2回目のこのコーナー。沖縄の年中行事とそれに関連する料理や食べものを紹介しようと思っている。が、しかし、5月にどんな食べ物を紹介するか困ってしまった。別に5月にイベントや年中行事がないわけではない。5月3日から5日までの「那覇ハーリー」が行われ、5月8日は「ゴーヤーの日」で、5月15日の「沖縄本土復帰記念日」になっている。

今年の5月は、旧暦だと3月15日から4月15日までで、昔からの年中行事としては「海留・山留(うみどめ・やまどめ)」、「アブシバレー(畦払い)」などしかない。ちなみに「海留・山留」は旧暦4月1日から5月の晦日まで海や山に入ることを禁じた、いわば物忌みの期間である。この時期は稲や麦の成熟期で、この間、太鼓などの鳴り物を鳴らしたり山に入り木を切ったり、川で魚を獲ったり、女性が海で遊ぶことを禁じた。もし禁を犯すと大風が吹いて凶作になったり、害虫が増えたり神ハブに噛まれるという。ではなぜ「海留・山留」の行事が生まれたかというと、この時期は野鳥や動物の繁殖期や草木の生育期、魚類の産卵期にあたるため、自然を保護する意識があったのだといわれており、自然を大切にしていた昔のウチナーンチュ(沖縄の人)の生きる上の知恵だったのである。

また、「アブシバレー」は旧暦4月14日、15日ごろ主に農村部で行われた行事。田畑の作付けのあと畦の除草を行い、害虫を駆除して豊作を祈願した。琉球王朝時代にはこの行事を重要視し、城中でも公務として害虫駆除を行う儀式があったという。海の近い農村では田畑に害をなすイナゴやネズミなどを捕獲して、芭蕉やアダン、クワズイモの葉などを船に見立てて海に流したという。人間の世界では害をなすものでも、海の彼方にある楽土のニライ・カナイでは仲良く暮らせるからという思想からで、そのために害虫を乗せた船には食べものやお土産まで持たせる地域もあったという。この日は畑仕事を休み、クファジューシー(炊き込みご飯)を食べたという。

ま、そんなわけで、新暦5月の年中行事だと食べものの話もクファジューシーだけで終わりそうなので、今月は旧暦5月の「ユッカヌヒー」と「グングヮチグニチ」に食べる「ポーポー」と「チンビン」、「アマガシ」の話をしよう。
長い前振りのあと、やっと本題突入である。

ところで、今回の見出しを読んでピンと来た人はほとんどがウチナーンチュだと思うが、もし沖縄県外の人ならかなりの沖縄通である。しかし、悲しいかなウチナーンチュでも30代以下になると意味がわからないという人も多いのも事実である。

ユッカヌヒーとは旧暦5月4日、グングヮチグニチとは旧暦5月5日のこと。ユッカヌヒーは現在でも県内各地でハーリーと呼ばれる(糸満だけはハーレーという)豊漁祈願と海の安全を願う爬龍船競漕が行われる。戦前までは首里や那覇をはじめ、各地のハーリー会場で玩具の市が立ち、子どもたちは年に一度だけこの日に玩具を買ってもらったという。玩具市ではないが、ボクが小学生のころ、昭和40年ぐらいまで平和通りの玩具屋さんや雑貨屋では、ユッカヌヒー前後になると店先に玩具をいっぱいぶら下げて、ハーリーセール(?)をやっていた。もっとも当時、那覇のハーリーは戦時下に途絶えたままで、その日がハーリーに関係するということは知らなかった。  
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2007年05月04日

「ハンタ原」「宮古ニ小・手間当」「トウガレー」


「ハンタ原」、「宮古ニ小・手間当」(FM-201マルフクレコード)

 今回は歴史的名盤といわれるA面「ハンタ原」B面「宮古ニ小・手間当」を紹介したい。このレコードは丸福レコード三十五周年記念、名盤復刻シリーズの一枚。というか、FMシリーズ25枚中のトップに持ってきた一枚。現代沖縄民謡の元祖といわれる普久原朝喜の代表作ともいえる「ハンタ原」。ところがジャケットには「ハンク原」とある。私は宮城輝忠の「宮古ニ小」が聞きたくて探し当てたレコード。手にとって片面の「ハンタ原」なる文字を見たとき、如何なる節なのかと思った。針を落としてみると、「ハンタ原」が流れた。単なる印刷ミスであった。昭和2年、大阪にて太平マルフクレコード開設。戦前、500以上のアイテム(SP盤レコード)をプレス。プロデューサー・普久原朝喜の元で古典音楽、民謡、芝居、漫談などありとあらゆる沖縄芸能をレコードにした。戦後、息子の普久原恒勇は沖縄にてマルフクレコードを開設。名盤復刻シリーズはその翌年にプレスされた。普久原朝喜、鉄子のデュエットの何だかひょうきんな節回しがその後の沖縄音楽に与えた影響は計り知れない。
 B面が宮城輝忠の「宮古ニ小・手間当」。去る3月31日102歳で亡くなられた高良輝忠さん。新聞によると宮城は旧姓ということ。この「宮古ニ小」こそがあの伝統のナークニーといわれる、コンチュー・ナークニー。力強い歌声と奔放な三線と、後のナークニー唱法の基本となっていった。昭和初期に大阪へ出稼ぎに行っているときに普久原朝喜にすすめられて12曲録音した。デジタルに復刻されているのはそのうち3曲。沖縄に帰ってからは新録はせず、表立った舞台活動もせず、地域の一歌手としての姿勢を貫いた。そこに生きながらにして伝説のナークニー奏者として知られた所以がある。4月12日の琉球新報の高良輝忠を偲ぶ記事に普久原恒勇のコメントがある。
「今、こんな歌い方はできない。戦前の人は民謡しか知らない。琉球音階以外耳にしていない琉球人だ…」
これは氏の父親の普久原朝喜の「ナークニー〜はんた原」にもいえるだろうし、そして仲間良謙歌う「トウガレー」にも。  
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2007年05月01日

『泡盛読本』『おきなわキーワードコラムブック』他


 うーん、なんてことだ。カート・ヴォネガットが亡くなってしまった。『猫のゆりかご』『ローズ・ウォーターさん、あなたに神のお恵みを』『スローター・ハウス5』『ガラパゴスの箱舟』など、SF的な仕掛けをもとに、現代世界が抱える絶望を、独自のシニカルなユーモアで切り取りつつ、しかし読者に温かな希望を与え続けたドイツ系アメリカ人の作家であります。日本でもかなり人気のあった人で(ほとんどの作品が翻訳されているし)、初期の村上春樹などにもかなり影響を与えていたはず。僕も彼の作品を読み続けて大人になったクチでありまして、初めて編集した「県産本」に、実は彼の名前にあやかったペンネームをつけてコラムを書いたりしていたのだ。「『加藤ぼねが』って、変な名前。内地の人みたいだけど、よく沖縄のこと知っているね。誰ね?」と言われたりしたなぁ。だれもカート・ヴォネガットをもじったものだとは気がつかなかった。あれから二十年後、大活躍している「加藤ローサ」の愛くるしい姿を見るにつけ、時代がようやくペンネームに追いついた気がした……。カート・ヴォネガット、享年84。うーとぉーとぅ。

 あっ、「沖縄県産本」の話である。前回、僕が「初めて意識して買った沖縄県産本」の話だったので、今回は「初めて編集をした沖縄県産本」について書こうと思っていたのだ。その「加藤ぼねが」を登場させたのが、世界初!まるごと一冊「沖縄そば」だけを語った本『波打つ心の沖縄そば』(まぶい組編 沖縄出版 1987年)である。

 当時、出版社に入社したてだった20代前半の若造にも関わらず、すぐに一冊まるごと編集を任されることになったのにはわけがあった。1980年代の県産本の世界はというと、沖縄タイムス社の金字塔である『沖縄大百科事典』が出版されたり、『青い目が見た大琉球』のニライ社、「おきなわ文庫」のひるぎ社など新しい出版社もぞくぞく登場してきて、多彩な種類の本が出版されるようになった。しかしその中で、地元の若い人が手に取るような郷土本というジャンルはまだなかった。僕が入社した沖縄出版の当時の編集長M氏は、その新しいタイプの郷土本のプランを練っていて、そのための編集グループの名前まで既にあった。それが「まぶい組」である。もちろんあの「まぶやーまぶやー うーてぃくーよー」の「まぶいぐみ」に引っ掛けたネーミングだ。

 僕もまた地元の同世代に向けて、「地元沖縄の文化は、なかなか面白い」ということをうまくアピールする本が作れたら……と漫然と思っていたので、本の編集のことなんか全然知らなかったのに、当時密かにマイ・ブームだった「沖縄そば」の企画を出してみたら、「じゃあさっそくやりなさい」とM編集長はゴーサインを出した。なぜそんなにあっさり企画を任せられたかというと、そこに若い編集者というのが、僕しかいなかったからだ。

 それで若いって恐ろしいですね、やりたいことを何でもかんでもやってしまったのである。沖縄そば食べ歩きイラストルポは、知り合いの初めて原稿を書く大学浪人生だったし、沖縄そばエッセイにはイギリス人塾講師や韓国人留学生に登場してもらい、こだわりのインタビューとして照屋林助さんと泡瀬そばで待ち合わせしたりして。あんなに偉い人とはまったく知らなかった。戦前・戦後の沖縄そば屋のことも実際働いていた方に語ってもらった。極めつけが装丁である。カバーがトレーシング・ペーパーなのである。当時日本の出版界は「ポスト・モダン」ブームでありまして、半透明なカバー・ジャケットの本がよく出ていたのだけど、それをまねっこしたかっのだが、予算がないのでぺらぺらのトレーシング・ペーパーに印刷したわけだ。今手元にこの本があるのだが、二十年後、このようになるのでありました。編集者同様、こんなにぼろぼろになるとは。でも後悔はしていません!  
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