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2010年09月13日

大城志津子の「御年日ぬ唄」

大城志津子の「御年日ぬ唄」
私が今、琉球新報で連載している「島歌を歩く」、色んな方面から意見や問い合わせがあったりするが、本人が喜んでいるということを聞くことほど嬉しいものはない。先月(8月)は上下2回に渡り、大城志津子について書いたが、本人が読んで喜んでいるということを聞いて嬉しくなった。というわけで今回は新聞のコラム「くんちり道」でも触れたが、CD「御年日ぬ唄」について書いてみたい

大城志津子「御年日の唄」のCD複刻盤「御年日の唄」歌・大城志津子民謡グループ
(ンナルフォン BCY-5 2010)

まず、大城志津子という人がどういう歌手か、ピンとこない人も多いと思う。そう、体格が大きくて三線ならぬ六線弾いて速弾きをテンクテンクと響かす女性歌手。といっても説明しづらい。彼女の代表作品の「朝ぱな」「八重山観光小唄」とかいっても、沖縄民謡に詳しくない人にはやはりピンとこないかも知れない。民謡クラブ「ハンタ原」を経営していた。三線の速弾きをさせたら凄腕で、女性では右に出るものはいない。弟子の数もハンパじゃないほど数多い。言うならば、三線の“女伝道師”というやつか。しかし5年前、体調を崩して30年も続いた店も閉めて、一線から退いて今は後進の指導、といっても師匠クラスを指導しているのですが、に力を注いでいる。  続きを読む



2010年08月09日

喜屋武均の「ちゃんぐゎ」

喜屋武均「ちゃんぐゎ」
最近は出不精というか、まあもともとデブ性ではあるけれど、体調も芳しくないこともあってなかなか外へ出ない。コザのキャンパスレコードで新作についてレクチャーを受けにいかなくては。なぞと思っていたら、タイミング良く、キャンパスレコード所属の松田一利のライブ(7月25日)が我が“いーやーぐゎー”催されたのだ。新作情報を収集しようと、あれこれ話をしたりしたら、BGMにと持ってきたアルバム、松田一利プロデュース「ちゃんぐゎ」。好都合なことに忘れていってしまった。返す返さないはこちらの都合であるからにして、今回はバリバリミームン(新作)を紹介してみよう。

喜屋武均「ちゃんぐゎ」「ちゃんぐゎ」歌・喜屋武 均
(キャンパス TUNE-7 2010)

7月9日発売の「ちゃんぐゎ」は見てくれも中身も古くさそう。本人の容姿も、よなは徹や松田一利等とは同級生には見えない。収録曲もこれまた昔かじゃー(におい)のするものばかり。収録順に掲げると、「仲島節」「ダンク節」「十番口説」「ヨー加那よー」…、それに私の好きな「アキトーナー」なども歌っている。本人が新聞の取材に語っているように、「ウチナー口が話せないとうまく歌えない」難曲が並んでいる。老人ホームに勤め、高齢者から沖縄語を学んだというから頼もしい。一度聴いてみて、“新鮮な古くささ”にびっくり、というか“発展途上の古くささ”というべきか。そのスタイルで歩み追求し続けば彼の理想とする伝説の歌手(ウタサー)金城睦松へと近づけるだろう。  続きを読む



2010年07月12日

田場盛信の「島の女(ひと)」

田場盛信の「島の女(ひと)」
 私は最近、琉球新報紙上にも「島唄を歩く」という記事を連載している。毎第一第三金曜日掲載で、島唄にまつわる各方面の方々(歌手やプロデューサーなど)を訪ねて、話を聞いて、レポートするものだ。楽しくてやりがいのある仕事だが、飲み屋をしながらだとちと肝臓に響いている気がするのは年のせいであろうか?そう、今回取り上げるレコードは、7月2日掲載のコラム「くんちり道」で書き足らなかった文の補足をしてみたい。というわけで田場盛信歌う「島の女」。東西東西。

「島の女(ひと)」歌・田場盛信
(マルフクレコードFF-77 1975)
 沖縄の戦後史を語るうえで、日本復帰、そしてそれに伴う経済措置としての海洋博は欠かすことのできない大きな出来事であることはいうまでもない。いわんや沖縄音楽史に於いてもおや、だ。基地のない、戦争のない、平和な島。そして少しでも生活が良くなるようにと願い復帰は実現された。しかし、祖国復帰は名ばかりで、基地は残り、おまけに自衛隊がやってきて、生活は益々もって良くならない。脆弱な経済基盤を少しでも良くしてくれるものと、庶民は「国際海洋博覧会」に一縷の望みを託した。不発に終わった儚い夢はもう、ウチナーンチュは忘れたかも知れない。

 1975年7月19日、沖縄国際海洋博は2000人の観客の見守る中、華やかに開会した。予定より2ヶ月遅れての開幕であった。そのためその期間は繰り越し、翌年の1月18日に閉幕した。当時の金で3千億円もの資本が投じられ、島をダンプがせわしなく駆け巡り、県外からたくさんの人が来て、道路が見る見る整備されていった。町のネオンも明かりが増した。街には歌があふれ、雨後の竹の子のように民謡クラブが増えていったのもその頃。しかし、事件事故は増え、物価はうなぎ登りに急上昇し、公共投資で残ったのは道路と建物ばかりで、材料費や人件費は本土へと逆流した。首切り、倒産、はては自殺と、“海洋博狂想曲”などと新聞でははやし立てた。
 そんな期待はずれの海洋博も終わりに近づいた頃…  続きを読む



2010年06月14日

小唄二題「沖縄観光小唄」「シンガポール小」

小唄二題
 今回は小唄?二題を取り上げたい。
「小うた」とは?音楽之友社発行の「音楽中辞典」によると、1.小歌 短い歌の意味で、中世近世の狂言小歌、隆達節、弄斎節(ろうさいぶし)、投節(なげぶし)などをさす。
2.小唄 近世三味線音楽のひとつで、幕末に端唄(はうた)から発生した短く軽快な歌曲。清元関係者の余技からはじまった。

「沖縄観光小唄」歌・フォーシスターズ
(マルフクレコード FF-208 1975)
沖縄観光小唄
 沖縄の民謡にも「小唄」と名のつく歌名は多い。ここで取り上げるのは、海洋博の頃にプレスされた、「沖縄観光小唄」。この作品の作詞者・喜瀬登氏の書いた「レコード出版にあたって」という思いを述べた一枚の趣意書がレコードと一緒に保管してあった。それは氏が長い間、胸の中で構想していた夢が実現できた喜びを書きためているもので、ひとつのオリジナル作品ができあがるまでの思いと苦労は大変なものだと今更ながら感じ入ってしまった。氏は言う「最近の沖縄民謡は流行化して、質が低下してしているように感じますし、単に世の中に、流行って人気を得たら良い良いというものではいけないと思います」民謡ファンへのメッセージを、ぜひあの時したためておきたかったであろう作者の情熱は、沖縄大衆音楽を支えてきたひとつの雫として記録されても良いものだと思う。

「シンガポール小」歌・津波恒徳
(マルテルレコードMT-1005 沖縄レコードORE-132)

シンガポール小 津波恒徳歌う「シンガポール小(ぐゎー)」というユニークな歌がある。これは戦前の沖縄で、貧乏ゆえ海外まで出稼ぎに行くときに、その道中を日記風に綴って三線に奏でて歌っていくものだ。津波恒徳が先輩達から聴いて仕入れた歌のひとつだ。しかしこの歌は元々「シンガポール小唄」という題名であったという。何の手違いか、「唄」が抜けてしまって、小がウチナーグチ読みの「ぐゎー」なったものだという。氏の作品には、例の古謝美佐子のデビュー作「すーしーすーさー」(FS-71)という、実際のタイトルは「すーさーすーさー」のはずだが間違ったままの題名でずっと歌われたのもある。これも印刷ミスのようだが、そんなこと気をとめない津波恒徳氏も悠長なもの。であるからにして、沖縄民謡でいう「小唄」とはどういうものか、一度は悠長に考えたいものではある。

小浜 司の『ryuQ100歌』バックナンバー:
http://ryuq100.ti-da.net/c73392.html


筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代(小浜司・著)沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)に移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。著書「島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代」を発売した。
島唄カフェいーやーぐゎーHPhttp://www.ryucom.ne.jp/users/iyagwa/
  


2010年05月10日

RBCラジオホームソング復刻盤〜おきなわのホームソングの原点

RBCラジオホームソング復刻盤
 今回はできたてほやほやのCDの懐かしい音源集を紹介しましょう。

RBCラジオホームソング復刻盤「RBCラジオホームソング復刻盤〜おきなわのホームソングはここから始まった!〜」
(TECI-1208〜1/2010年4月7日)

 琉球放送のテレビを見ていると、要所要所で「おきなわのホームソング」と、子供達の声が流れて、今月のホームソングが流れる。おきなわの子どもたちのために、子どもたちが歌える新たな「おきなわのうた」作りということで2007年4月にスタートしたという。現在23曲の楽曲をお茶の間に届けている。

 実はその「おきなわのホームソング」の原点は40数年前のラジオ番組「RBCホームソング」が発端であったという。その後RBCレコードのレーベルを立ち上がり、数々の名曲を生み出してきた。そして、琉球放送創立55周年企画として「RBCホームソング」やRBCレコードからの名曲32曲を最新のデジタル技術で甦らせ、ついこの間、4月7日にリリースしたのが本CDである。そして32楽曲の解説を仰せつかったのがわたくし。何といっても時間がなかった。普久原メロディーを代表とする当時のヒット曲のオンパレード。何の関係もない一レコードファンの私には大変な仕事であった。とにかく、一度手にとって見てもらいたい。

 沖縄の中で沖縄音楽のヒットというのはあったが、いわゆる本土でいうところのヒット曲というのは「ちんぬくじゅうしい」からではではないか?RBCレコード・レーベルの1枚目がそれで、次々とヒット曲が生まれ出たのがRBCレコードであった。
RBCレコードからリリースされたフォーシスターズやホップトーンズなど
 フォーシスターズやホップトーンズがどんどん歌った。世はヒット曲時代へと突入していく。そしてレーベル乱立時代へとも流れていく。マルフクレコードとマルタカレコードの2大レーベルからマルテル、ゴモン、沖縄レコードそしてRBCレコードと次々に立ち上がったのは66年から68年にかけて。独自のカラーで競ってヒット曲生み出していった。

 RBCレコードのレーベルからシングルレコード19枚(そのうち古典音楽3枚)がプレスされ、今回古典を除く16枚のほとんどを復刻した。個人的には「軽便鉄道節」や「ボサノバ・ジントーヨ」などを一人で聴いて楽しみたいところだが、これだけの歴史的な名曲を、しかも現代の「おきなわのホームソング」につながる40年以上前の音源の復刻というのは実にうれしい限り。どんな曲が収録されているかって?ではチラッと「ちんぬくじゅうしい」「ゆうなの花」「芭蕉布」「ヘイ!二才達」、おっとっと「丘の一本松」などなど、etc。

・ここで一つ解説の誤りの訂正を;
「ばらさんぴん」の「ばら」を産地が違う意味に解しているが、それは間違いで、「量り売り」のことと指摘されました、訂正して関係者にご迷惑をおかけしたことをお詫びしたい。

小浜 司の『ryuQ100歌』バックナンバー:
http://ryuq100.ti-da.net/c73392.html


筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代(小浜司・著)沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)に移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。著書「島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代」を発売した。
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2010年04月12日

知名定男のデビュー曲「スーキカンナー」(1958年)

知名定男のデビュー曲「スーキカンナー」(1958年)
 今回は知名定男のデビュー曲「スーキカンナー」を取り上てみげよう。

歌って暮らせば…ホップトーンズ「スーキカンナー」歌・知名定男
(マルタカレコード T-897 1958)

 言わずと知れた知名定男のデビュー曲。数え13歳の時の録音だという。とは言っても最近この曲を歌う歌手が少なくなって、結構な島唄ファンでもあまり聴かないのではないか。難しいというのもあるかも知れない。スーキ(惣慶)もカンナ(漢那)も地名で宜野座村に属している。歌の出だしが「スーキカンナ、チン(金武)からヤイビーシガ」と始まるところからこのタイトルになった。「惣慶、漢那、金武から参りましたが」と行商人が頭にモノを乗せて担いで売り歩く「カミアチネー」の歌。かつては惣慶も漢那も、もちろん金武も金武間切に属していて、一まとめにして歌にしているところが何とも微笑ましいところ。よく、隣接する二つの村や島を併称するならいが結構あって、例えば、ターバティングワン(田場、天願)とか、チキンクダカ(津堅、久高)とか語呂の良いのは並べて併称していた習慣が沖縄にはあった。

 さて、レコードに話を戻して、知名定男著「うたまーい」(岩波書店)によると、録音は琉球放送の舞台で緞帳を降ろして行ったという。元々ゆっくりであったのを速弾きに編曲して録音した。登川誠仁のアイデアで手解きももちろんセイ小(登川誠仁)。この音源がラジオから流れると、全島の民謡ファンは驚いた。「クヌワラバー、マーヌガ(このガキいったい何処のどいつだ)」天才少年・知名定男の誕生だった。一躍スターダムに躍り出た。聴衆はラジオに耳を傾け、思い浮かべるのだった。実際、今聴いてもその凄さはちっとも衰えてないといってもいい。とにかくテンポに狂いがない。音程もピキッ、パキィッと崩れない。知名定男が当時から現在まで第一人者でいられる天性というのをまざまざと見せつけるレコードである。登川誠仁、前川朝昭、山内昌徳らを伴奏に従えたというから回りの期待度も相当なものであったということが分かる。しばらくして声変わりしたとき、これは知名定男ではない、本物を出せ!と大騒ぎになったこともあるという。知名定男ファンにとっても沖縄音楽ファンにとっても、貴重な一枚だ。

【付録】:このレコードのB面が移民小唄のはずだが、どうしたことか、中国のラジオ放送音楽のような音が入っている。なんたるちあ。ということは世界的に貴重なレコードかも知れない。

小浜 司の『ryuQ100歌』バックナンバー:
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筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代(小浜司・著)沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)に移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。著書「島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代」を発売した。
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2010年03月08日

「ホップトーンズ」特集♪


 今回は沖縄の男性4人組コーラス・グループ、ホップトーンズ(1966年結成)のLPアルバムを1枚とシングル1枚を取り上げてみたい。

歌って暮らせば…ホップトーンズ「うるま島」歌・ホップトーンズ
(RBCレコード RM-102 1969)
「歌って暮らせば…ホップトーンズ」
(マルフクレコード FFG-28 1980)

 ホップトーンズ、何だか妙なグループである。確か私が中学生の時ではなかったか。「サンテ全日本歌謡選手権」というテレビ番組があり、プロの歌手もアマチュアも出演して、10週勝ち抜けばメジャーデビューできるという歌合戦で、ホップトーンズが出演して、1週目で落選した。何故だろう。とてもショックだった。確か、大工哲弘も出演していて、彼は8週勝ち抜いた。落選したときの理由が、歌の意味がわからないということで、これにもショックを受けた記憶がある。

 とにかく、私がラジオで聴いていた、ホップトーンズは紛れもなくプロであり、沖縄を代表するコーラスグループだと無意識的に思っていた。そんな彼らが、いとも簡単にしかも審査員にめちゃくちゃ言われて落選ときた。何だか分からなかったがショックだった。後になって彼らが、それぞれの仕事を持ちながらいわゆるアマチュアなグループであるということを知って少し納得したような気がした。そして40年以上もそのスタイルで今も歌い続けているのだから、あの時のショックはもうリセットしてもよさそうだ。

「うるま島」歌・ホップトーンズ ホップトーンズは男性4人組コーラス・グループ。沖縄中央混成合唱団出身の、金城邦松、池原宏(故人)、金城安雄、川上泰雄が、1966年に結成。普久原恒勇門下のグループ。フォークソングを主に歌っていた彼らに沖縄の歌をということで、普久原恒勇がホップトーンズのために書いた最初の曲が「うるま島」だ。デビューレコードだ。その少し前に「ふるさとの雨」(「芭蕉布」とのカップリング)という歌のバックコーラスでレコーディングに参加はしていたが、デビュー曲はやはり、この「うるま島」であろう。「うる」とは珊瑚の砂のことで、「ま」は島のこと。うるま島とは珊瑚の島=沖縄の別称。文字通り沖縄の歌である。そして沖縄の音楽界にショックを与えたレコードである。

 ホップトーンズの代表曲と言えば「ヘイ!二才達」がある。「うるま島」もそうだが、作詞・朝比呂志、作曲・普久原恒勇。朝比呂志(故人)は普久原恒勇の弟で、兄弟コンビの作品。どちらの音源も沖縄音楽ファンなら誰でも知っている曲だ。このアルバムにはないが「語れー小」や「しんかぬ達」も二人のコンビ。普久原メロディーにはホップトーンズは欠かせないということ。歌って暮らせば…、歌って暮らしたいもので、歌って暮らせるホップトーンズに乾杯というところか。

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筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代(小浜司・著)沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)に移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。著書「島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代」を発売した。
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2010年02月08日

追悼特集:「喜納昌永」と「吉田安盛」

追悼特集:「喜納昌永」と「吉田安盛」
 今回は昨年末に亡くなった、沖縄民謡界の二つの巨星、喜納昌永さんと吉田安盛さんのアルバムを紹介してその業績を偲びたい。

喜納昌永カチャーシー特集『喜納昌永カチャーシー特集』
(ゴモンレコード GTM-101)


 喜納昌永さん(以後敬称略)といえば、今ではミュージシャンで国会議員(参院議員)の喜納昌吉の父親として有名だが、戦後沖縄民謡の第一黄金期を築き上げてきた巨人の一人だ。1920年生まれというから嘉手苅林昌と同級生だ。吹き込んだレコードの数も二人は東西の横綱である。その訃報を私が知ったのはクリスマスの日の新聞であった。88歳。沖縄島唄の普及と発展に尽くした生涯であったといえよう。
 1960年代、民謡クラブの盛んな頃、大スター的存在として輝き、民謡をショービジネスとして確立させたその人こそ喜納昌永であった。後継者の育成も精力的で現在でも活躍する民謡歌手を排出し、「民謡三人娘」として活躍した饒辺愛子、吉里和美、玉井良子なども喜納門下から育った。結束の堅い一門でのファミリーグループの演奏は、まさにショーアップにふさわしく華やかで活気あふれるものであった。そんな雰囲気をまさしく漂わせているアルバムがこの『喜納昌永カチャーシー特集』である。録音日時のクレジットはないが、1967年だろう。この音源がデジタル化されたかはよく知らないが、いまでもこの雰囲気はつくり出せないのではないかと思うと合掌せざるを得ない。

吉田安盛・盛和子のトゥックイ小『吉田安盛・盛和子のトゥックイ小』(舞踊曲・吉田安盛作品集)
(マルフクレコードFFG-11)


 吉田安盛といえばラジオの民謡パーソナリティーである。目覚めの私語きはコーヒーよりも、サンピン茶と黒砂糖が似合う朝一番のミーチューヤー(目覚めに効く薬)であった。沖縄庶民の代表的な語り口は、まさに生活の香りであり、感情であった。復帰の年の1972年に極東放送の「ハイサイ、ウキミソーチー」から始まったというからキャリアは長く、ラジオ沖縄の「暁でーびる」では亡くなるほんの少し前までもその声はラジオから流れていた。
 芸能プロダクション「盛芸能」のリーダーとして奥さんの盛和子と長年おしどり舞台をつとめた。さて、このアルバム、A面が吉田安盛作品集となっており、氏の手掛けた作詞作曲の歌を愛妻が歌うという、ほのぼのとしたものに仕上がっている。2曲目から聴けばだが。ところがA面のトップに自分の奥さんよりも酒を愛するダメ男としっかり女房の語り芝居「トゥックイ小」持ってきているところにこのアルバムのテレを感じるところである。私は二人の演ずる「トゥックイ小」を舞台で見たことがある。あの愛情たっぷりで迫力のある演技が今レコードの針先からよみがえってくる。12月13日になくなった。享年78歳、合掌。

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2010年01月11日

めでたいレコード音源『山里勇吉集』(マルフク)

めでたいレコード音源『山里勇吉集』(マルフク)
 去年の暮れに沖縄音楽界の二つの巨星が沈んだ。喜納昌永氏と吉田安盛氏の二人だ。彼らの音源については日を改めて書きたいと思う。今回は正月ということで、めでたそうなレコードを紹介したいと思う。

沖縄民謡 第十四輯・山里勇吉集「沖縄民謡 第十四輯・山里勇吉集」
(マルフクレコード FL-1014 1960)

 このアルバム、見るからにおめでたそうなデザインだ(与那覇朝大装幀)。ジャケットの中央に扇が広げられ、白地の紅型模様。少し年を重ねたウチナーンチュなら、多分めでたい発想しか湧かないとだろうと思う。そして見るからに古そうなのである。LP盤(45回転)でありながら小さめでSP盤(78回転)サイズである。ということは発条仕立ての蓄音機から電動ターンテーブルへと移り変わりの頃のレコードということになる。
 アメリカでは1955年頃にはEP盤(45回転)が生産され、普及していったが、日本では60年頃からドーナッツ盤(EP)に変わり、62年頃に蓄音機盤の生産はほぼ終了する。
 さてさて、レコード。サイズが小さいということは曲数も少ないということになる。曲目を見てみよう。

A面に赤馬・シューラー節、鷲ン鳥、桃里節、トバルマ。
B面に古見の浦、夏花、殿様節、みるく節・ヤーラーヨー。

録音も太鼓の音ががんがんかぶるようなフワフワ録音だが、それでも若い頃の山里勇吉のスタジオからはみ出るような力強い「トバルマ」には身震いさせられる。なるほど、第一人者の喉というのはこういうものかと平身低頭だ。山里勇吉が那覇に移り住んだのは1960年というから、氏が35歳の頃。その2年前の1957年には八重山群島トゥバラーマ大会で優勝している。そして1963年にはNHKのど自慢大会に沖縄代表として出場している。もちろん曲は「トゥバラーマ」。日本の民謡は、歌と囃子が交互に掛け合うのだが、トゥバラーマもそうだが、沖縄の民謡は囃子が歌に被さってくることがよくある。当時の日本民謡の審査員達にはどうもそれが理解できなかったようだ。
正月ということでめでたい歌を紹介し解説したかったが紙数が尽きたようだ。ともあれ、山里勇吉の50年前の音源で、赤馬〜鷲ん鳥〜トバルマそしてみるく節で年を明けると気が引き締まる思いだ。

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筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代(小浜司・著)沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)に移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。著書「島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代」を発売した。
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2009年12月14日

若き日の“元ちゃんと古謝美佐子のデュエット”

若き日の“元ちゃんと古謝美佐子のデュエット”
今回は今を轟く元ちゃんと古謝美佐子のデュエットのレコードを紹介しよう。

かわんなよー、花と蝶「かわんなよー」
「花と蝶」歌・前川守賢、古謝美佐子

(ンナルフォンレコード FF-1016)

 元ちゃん、こと前川守賢といえば、沖縄では誰でも知っているマルチタレントである。かたや、古謝美佐子となれば、今ではこれまた全国区、沖縄音楽ファンならば知らない人はいないと言っていいほどの超大物。

時は1900、80年代中半。元ちゃん、レコーディングデビューの頃。元ちゃんというのは幼名で、生まれた日が旧正月だったので、正式な名前が決まるまで「元ちゃん」と呼ばれていた。両親が所属していた劇団「新生座」の巡業中に生まれたという。家には照屋林助や嘉手苅林昌などが訪ねてきてはお茶を出したりしていたという環境で育った。音楽に対しても多くの先輩方からいろいろな音楽を吸収していった。話を戻すと、その中で最も影響を受けた先輩歌手の一人が古謝美佐子であった。「彼女の歌に対する姿勢に大いに動かされ、より自分らしい歌を追求することの大切さを古謝美佐子から学んだ」と、後に私に語っていた。

「かわんなよー」も「花と蝶」の両曲とも作詞・上原直彦、作曲・前川守賢。そして玉栄政昭が編曲。今、又改めてじっくり、歌詞を見ながら聴いてみると、元ちゃんは、上原直彦からも玉栄政昭からもちゃっかりその姿勢を盗んで(失礼!)いたことに気づかされる。そして元ちゃんの芸能生活の初期の代表曲「遊び庭」へと発展し、実を結んでいくのがわかるのだ。となると、このレコードは前川守賢の後の方向性を決定づけたレコードといっても差し支えないと私は思っている。何?古謝美佐子にとってはどうなのかだって?知らない、じゃなくて次の機会に、ということで!

かわんなよー、花と蝶「かなさんどー」歌・前川守賢
(マルフクレコード KF-42 1983)

 この元ちゃんのデビューレコード「かなさんどー」、今回は付録。デジタル音源は多数あるのだけれども、まあ当時(26年前)のジャケット写真でも見てもらいたいという私のほんの気持ちです。

小浜 司の『ryuQ100歌』バックナンバー:
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筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代(小浜司・著)沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)に移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。著書「島唄レコード百花繚乱 — 嘉手苅林昌とその時代」を発売した。
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タグ :沖縄音楽


2009年11月09日

佐渡山豊「ドゥチュイムニィ」/サムライ「サムライ挽歌」

佐渡山豊「ドゥチュイムニィ」/サムライ「サムライ挽歌」
今回取り上げるレコードは沖縄フォークファンなら誰でも持っておきたい2枚だ。すなわち佐渡山豊の「ドゥチュイムニィ」とサムライの「サムライ挽歌」だ。

ドゥチュイムニィ「ドゥチュイムニィ」歌・佐渡山豊
(エレックレコードEB-1013 1973)

 私事で恐縮ですが、この度本なるもの、ボーダー新書から「島唄レコード百花繚乱」というタイトルで出させていただきました。このryuQのサイトの連載などに加筆修正したものでして、合わせて読んでいただくと大変ありがたい。
 レコード時代の沖縄音楽はまさに百花繚乱で、島唄はもちろん、フォーク、ロック、演歌、ジャズなども一地方としては考えられない程プレスされた。島唄は地元のレーベルが盛んでヒット曲なども産み出していくのですが、フォーク、ロックとなるとやはりレーベルは本土ということになる。1972年、沖縄フォーク村を結成し、初代村長となった佐渡山豊は「ドゥチュイムニィ」を引っ提げて本土デビューを果たす。当時、吉田拓郎や泉谷しげるなどが所属するエレックレコード。ドゥチュイムニィとは「独り言」という意味で佐渡山豊ふうの「イメージの詩」というところ。当時はラジオから連日のように流れ、友人からカセットに録音してもらって何度も聴いたものだ。高校生の頃だった。それが'96年、突然「ドゥチュイムニィ」が泡盛「菊の露」のCMソングで流れた時は驚きであり、懐かしくもあり、それがより洗練されたものであったので嬉しくなった。翌年「さよなら沖縄」というアルバムをリリースするのだが、それには私も協力させてもらった。

サムライ挽歌「サムライ挽歌」歌・サムライ
(ビクターPRA-10467  アールビーシーレコード キャンパスレコード)

 何だか複雑なレーベルである。ビクターにアールビーシーにキャンパスとくる。作詞・ビセカツ/作曲・黒川修司/編曲・照屋林賢、演奏・林賢バンド/ヤグイ当山安一&ヤグイメン。なんだこりゃ、だ。あなたはサムライなる人物をご存知か?沖縄ではかなり有名でスゾ。キャンパスレコードのCDのジャケット多数手がけ、最近では絵本も出版した、あのグラフィックデザイナーの和宇慶文夫。コザ独立国の総理大臣といえば分かるはず。ならば泡盛「轟」のCMに登場した「普通の上等」のあのオッサン。なに?ヤマトでは放送されてない?とにかく風変わりで才能バリバリのサムライの「サムライ挽歌」、良いか悪いか聴かせたあげたい心。

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筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
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2009年10月12日

嘉手苅林昌と瀬良垣苗子の2つの「なーしび節」

瀬良垣苗子の「なーしび節」、嘉手苅林昌「なすび節」
今回は、瀬良垣苗子、嘉手苅林昌の「なーしび節」2題をとりあげたい。ともに意外だがデビュー盤なのである。嘉手苅林昌の「なすび節」は直筆メモが書かれた貴重なSP盤を写真入りで紹介しよう。

なーしび節「なーしび節」歌・瀬良垣苗子
(マルテルレコード T-907 1960)

 戦後を代表する女性歌手の一人、瀬良垣苗子のデビューレコード。瀬良垣苗子と言えば島唄レコード最大のヒット曲、「うんじゅが情どぅ頼まりる」を思い浮かべるが、そのデビューも華々しかったようだ。芸能生活25周年記念「瀬良垣苗子リサイタル」のパンフレットに寄せた、上原直彦氏の「ナビーぶしの情念」によると、「素人のど自慢大会」の予選で彼女が歌いだすや否や、傍らで別の(歌謡曲)予選の伴奏のアコーディオンの手を止める程の歌声に、その場にいた聴衆すべての耳を奪い去ったという。その歌こそが「なーしび節」であった。そして彼女は「なーしび節」を引っ提げて翌年の沖縄代表の座をを射止めたということだ。
 この歌は今でも九州熊本などでうたわれている「なれなれ茄子」という民謡が元歌で、古典音楽では「ちるれん節」の歌詞として知られる。瀬良垣苗子はこの曲で華々しくデビューを飾り、以後永きにわたってトップスターの座に君臨した。1991年に一線から退き、1999年に再起のアルバムをリリースするも現在は歌の世界からは身を引いている。


なすび節「なすび節」歌・嘉手苅林昌、当銘とみ子
(太平マルフク 786)

 嘉手苅林昌のデビューレコードは「恋語れ節」と「なすび節」とのカップリングで生涯最初の録音である。もちろんSP盤で、「昭和二十五年六月十八日、照屋ぬ前ぬタル普久原の前ぬアサギで録音した物」と、レコードのジャケットに記録されている(嘉手苅林昌の直筆による)。その音源は2000年にリリースされた、嘉手苅林昌追悼CD「ジルー」に収録されている。
 「なすび節」ですが、通常は瀬良垣の歌っている、嫁姑の諍いのような内容だが、ここでは男女の恋愛の危うさを掛け合いで歌っている。

♪誰と一緒に今宵の月を眺めよう
 面影はあれど一人で眺める
♪私の思いを通すと君の心には通じない
 何故この浮き世はかくも苦しい


 1950年といえば、出稼ぎ、戦争、幅員そして本土での地謡修行の後沖縄に帰ってきて、2年目である。嘉手苅節の本格的始動といってもレコーディングであるし、本人の気持ちも固まった頃ではなかったか。ともあれ、本人の形見のレコードをお見せすることで、没後10年目の追悼としよう。合掌!
なすび節
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2009年09月14日

フォノシート・アルバム「宮良長包作品集」解説(by.小浜司)

フォノシート・アルバム「宮良長包作品集」、決定盤 これが島うただ!嘉手苅林昌のすべて
今回はコレクターが欲しがるアルバムを2枚用意した。すなわち宮良長包作品集と嘉手苅林昌の2枚盤LP「嘉手苅林昌のすべて!」だ。

宮良長包作品集「宮良長包作品集(珠玉集)」
(沖縄新響レコード会社 A-004〜007 1967)

 話が音楽であろうと何だろうと、どの分野にもマニアという人たちがいて、コレクターという人たちがいる。彼らはこれぞというとっておきのものを持っていて、ここぞという時に同じマニア達に見せびらかして悦に入っているのである。ここいらで私のそのとっておきのレコードをお見せするとしよう。フォノシート・アルバム「宮良長包作品集」がそれである。
 沖縄の誇る作曲家・宮良長包(1883〜1939)のことは私が説明するまでもないでしょう。
4枚のフォノシートからなる、このアルバムには宮良長包の代表曲16曲が収録されている。沖縄プロムジカ合唱団による「えんどうの花」や「鳩間節」それから城間繁独唱による「ふる里」「なんた浜」、城間千代独唱の「桑の実」などなど。目次を見て、聴いてみようと思っても、フォノシートという性質上なかなか簡単には針を落とせない。そうです。なかなか聴けないというところもレアという一面ではないか。変なロジックなのだが、最近のレコード針は少し高いのだ。
宮良長包作品集)

決定盤 これが島うただ!嘉手苅林昌のすべて「決定盤 これが島うただ!嘉手苅林昌のすべて」
(ビクター SJV-2031〜2032 1975)

 今となってはレコードそのものがレアであり、コレクションなのであるが、やはり嘉手苅林昌のレコードはその音源が、その後のコンピレイションアルバムに収録されようともファンは持っておきたいもの。ましてや2枚盤ですべて嘉手苅林昌。コンビの相方が大城美佐子というからまとまった形で聴いて堪能したいものだ。三線伴奏に知名定男、嘉手苅林次。太鼓に八木政男、大城美佐子。鳴物に北島角子、久場洋子、大城美佐子。監修・解説に竹中労。
 その解説にいう「この2枚組のLPには『琉球フェスティバル・'75春』公演に上京した嘉手苅林昌と、そのチームを、青山のビクター・スタジオに招いて録音した、21曲が収められている。嘉手苅林昌にとっては、最初の本格的なスタジオ録音であったが、一回のミスもなく僅か2時間で23曲収録し了った」。あとで2曲のノイズに気づいたが結局嘉手苅は録り直さなかった。テンションが高いというのはそういうレコーディングにいうのかもしれない。

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2009年08月10日

「普久原恒勇」特集(by.小浜司)

「普久原恒勇」特集(by.小浜司)
今回は普久原恒勇さんを絡めつつアルバムを、「響」と「The Last session」の2枚をご紹介したい。

響(とよむ)民族音楽/詩曲「響(とよむ)」演奏・響の会、作曲・普久原恒勇
(日本コロムビア株式会社 FX-7077 1981)

 先日ある友人と話をしていて、このアルバムレコード「響」がCDに復刻されてないと聞いて驚いた。このLPを初めて聴いた頃、凄い作品が出来たものだと、ひとり感心していたことを思い出す。古典ファンも民謡ファンも一度は耳を傾けるべき一枚だと思っていたけど、レコードに針を落とすということは私自身そんなになかった。琉球の歴史の独自性に音楽で、民族楽器による大編成の管弦楽の演奏で、表現しようとするスケールの大きな意欲にはついひれ伏してしまう。この間あらためて聴いてみて、そう感じた。普久原氏の年譜を見てみると、氏が49歳のときの作品だ。「芭蕉布」、「ゆうなの花」、「遊び仲風」などの作品を生み出した、表現者=沖縄の戦後最大の作曲家の野望を今更ながらみる思いがした。この作品で冊封使ならぬ、黒船が来たとき、ペリー提督の眼前で「響」を演奏していたら、などと勝手に想像してしまった。


THE LAST SESSION「THE LAST SESSION」嘉手苅林昌/普久原恒勇
(東芝EMI TOCT-9551 1996)

 1999年に他界した嘉手苅林昌であるが、晩年にも結構な作品(アルバム)を残している。例えば前回紹介した「沖縄の魂の行方」や山里勇吉、嘉手苅林昌「うたあわせ」(BCレコードBCD-GXY 1999)などもそうだ。彼自身が精力的に取り組んだというより、周りが放っておかなかったというのが事実に近いかもしれない。晩年の作品の中でとりわけ私が評価したいのが、この「ザ・ラスト・セッション」だ。とにかく嘉手苅林昌が安心しきっているのが良い。晩年の嘉手苅林昌を本当の意味で緊張させ、そして甘えさせきれる伴奏者は普久原恒勇以外にいなかったのではないか。76歳の嘉手苅林昌の全体重をもたせかけさせ、なおかつ、背筋一本通した気品さまで高めたアルバムといえよう。“枯れにぞ枯れし”色気漂うほどにその声を引き出し得たのは、やはり嘉手苅の呼吸を知り尽くしている、普久原の三線のツボに十分任せ歌いきっているからに他ならない。若い頃や絶頂の頃の嘉手苅林昌もいいが、晩年にこのような巡り合わせのアルバムを出せるのもやはり嘉手苅林昌だと感慨せずにはいられない。

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筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)に移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。
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2009年07月13日

松田弘一の「北谷舞方」、嘉手苅林昌の「沖縄の行方」

ryuQ100歌7月号
今回は三線マクバンチの筆頭よ言えましょうか、若き松田弘一の「北谷舞方/あっちゃめー小」と枯れにぞ枯れにし、嘉手苅林昌の「沖縄の魂の行方」の二つを取り上げます。

「北谷舞方/あっちゃめー小」歌・松田弘一「北谷舞方/あっちゃめー小」歌・松田弘一
(マルフクレコード KF-286 1975)

 舞方といえば、中部方面ではかつて、毛遊びでの代表曲であったという。もちろん宮古根やかいさーれーなどの歌も歌われたが、かじゃで風(かぎやで風)を速弾きにしたのが舞方で、毛遊びの出だしは、この歌をバックにニーセー達が力勝負や空手勝負などをしたという。もちろん強い男はモテたわけだし、地謡の舞方も力強くなければならなかった。そういう意味でも、松田弘一の奏でる三線の力強さは、あたかも沖縄角力のBGMのような迫力がある。それはやはり氏のイメージする音楽が相当古くさいということになろうか。舞方の正調とも目されても良いこのレコードには若き日の松田弘一の並々ならぬ意地というものが三線のはしはしから伝わってくる。普久原常勇は芸歴40周年記念リサイタルのパンフレット(1997)に、この世から消滅しそうなティチバンチ、チュラビチ、マクバンチなど最も典型的な奏法を松田弘一が墨守してきたと指摘する。となると1975年当時のあっちゃめー小のその奏法を学べるヒントがあるのだ。これから力強い三線奏法を学びたい若者はこれを鏡とすべきかな。

「沖縄の魂の行方」嘉手苅林昌「沖縄の魂の行方」嘉手苅林昌
(CK-324 2005)

 1996年10月12日久高小中学校運動場にて行われた「近藤等則、神の島・久高島ミュージック・キャンプ」での嘉手苅林昌の野外ライブ実況録音CDである。氏の死後6年後、7周忌記念アルバムとしてリリースされた。ジャズトランぺッターの近藤等則のたっての希望で実現した、神の島・久高島でのライブ。実現迄を身近に見てきたものとしてはいろいろな苦労を乗り越えてのミュージック・キャンプであった。嘉手苅林昌が息子の林次に三線をあずけ(もちろん本人も弾いてはいるが)もたれかかりながら風のように歌っている。歌の出だしも、
♪風や北吹ちゃーぐわー
と来る。得意のかいさーれー。最晩年の人生を回顧しての吐露。あたかも「唐船どーい」の瀬名波のタンメーのように一散走ぇーしない嘉手苅林昌が
♪別れがたなさや 互にうらやしが
  別りらねなゆみ 義理ぬ習れや   — かいさーれー —
(別れられぬ程愛していても 別れねばならぬ浮き世の義理)

1996年10月12日の久高島は風は涼しかった。自分の歌を半分しか知らないという女の子に、半分わかれば十分だとするオジーはやはりただのオジーではなかった。1999年10月9日午前5時4分、肺がんのため永眠。享年79歳。

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2009年06月08日

「名護小唄」(仲宗根美樹)と「三味と共に…」(嘉手苅林昌)

ryuQ100歌6月号
 今回は、仲宗根美樹のレコードと、嘉手苅林昌のCD一枚を取り上げてみよう。

「名護小唄」歌・仲宗根美樹「名護小唄」歌・仲宗根美樹
(キングレコード NC-159 1940)

 仲宗根美樹と言えば、「川は流れる」をご存知だと思いますが、この曲は今もって聴くたびにゾクゾクとくるものを感じるのですが、ウチナーポップの元祖とも言うべき「種のコミュニケーション」とうのを時代を超えて示してるのではないかと、思うのは私だけでしょうか。
 では、ウチナーポップの“種”のコミュニケーションとは何か、という問いを私に与えたのがこの「名護小唄」でありました。仲宗根美樹は1960年、16歳の時、キングレコードより「愛に生きる」でデビューして、62年の「川は流れる」はミリオンセラーとなり、その年の日本レコード大賞新人奨励賞を受賞しています。その後「奄美恋しや」や「恋しくて」など続々ヒット曲をとばし、大スターとなりますが、実業家に転換してどうもうまく行かなかったようです。現在は銀座でクラブのママで働いているといいます。
 さて、「名護小唄」は64年の作品で、まあ彼女が一番乗りに乗っている頃かもしれません。しかし、この歌は戦前、普久原京子も歌っているのです。1940年、太平丸福レコード(福-724)で歌われているカバー(もしかして彼女の前に誰かこの歌を歌ったかもしれませんが)ということでしょうか。
 SP盤で聴く、普久原京子の歌うヤマトグチ=日本語の歌詞(かなり聞き取りにくいが)の珍しさもあるのですが、しかし感覚そのもは古くさくない感じがして私は好きです。そして仲宗根美樹歌う「名護小唄」はどうも沖縄語ぽくないが、懐かしさは、普久原京子のそれと似ているのです。
 ともあれ、時とジャンルを隔てても、故郷・沖縄を歌う心持ちというのは一つということかも知れません。ではでは、それを沖縄音楽のコミュニケーションとして歌える最近の若手歌手はいるのでしょうか?

「三味と共に…」歌・嘉手苅林昌「三味と共に…」歌・嘉手苅林昌
(嘉手苅林昌追悼公演実行委員会 2001)

 2001年11月4日、嘉手苅林昌追悼公演が催された。死して2年後のことであるが、その記念版としてリリースされたのが本CDである。「三味と共に…」は追悼公演のタイトル。曲は「宮古根〜はんた原」、「かいさーれー」そして「下千鳥」の3曲。
 それらはいずれも1974年、中頭教育会館にて催された「嘉手苅林昌リサイタル」からの音源。音源的には他のCDでも復刻されているので、決して聞けないものではないが、追悼公演に祝儀(寄付)を持って来た人のみに配られたという珍しいCD。
 私も制作者として関わったので何枚か持っていたが、つい知り合いに差し上げたりして、終には一枚しか残らなくなってしまった。

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2009年05月11日

ゴモンレコードの「耳切坊主」と「山原手間当」

ryuQ100歌5月号
 今回はゴモンレコードの2枚を取り上げてみましょう。「耳切坊主」と「山原手間当」の2枚。山原の方は嘉手苅林昌と知名定男のコンビというからこれまた珍しい。

「耳切坊主」歌・山内まさのり、中井須美子「耳切坊主」歌・山内まさのり、中井須美子
(ゴモンレコード GM-19)

 沖縄の童謡の音源は意外と探しにくい。ここにある「耳切坊主」(A面は「べーべーぬ草刈いが」もそうだが)も歌詞を確認しようと探したが、見つからないというお客さんが多い。子守唄(童謡)としては最も有名な曲の一つなのに、聞く人が限られているのだろうか。しかし、この歌ほど不思議な子守唄はそう無いのではないか。早く寝なさい、寝ないとマジムン(魔物)が現れて耳を切るぞ!耳を切られたくなかったら目を瞑りなさい、と大人が脅す。すると子供の方は耳を切られたくないから一生懸命目を瞑る。そうするといつの間にか寝入っている。そのバックグランドはそうだが、意味の方もまた不思議なのだ。
 大村御殿の門の前に耳切坊主が3人4人と刃物を持って立っているのだ。耳切坊主は実際に存在して実際にあった事件をもとに作られた童謡で、モデル(一人)も実在していた。「琉球天女考」など2、3の本を紐解いてみると、色々なことが分かってくる。通説では18世紀前半頃、那覇若狭町護道院の黒金座主という住僧が妖術を駆使して若い女性を誑かしていたという罪で、北谷王子(王弟)に成敗されたとされる。
 黒金座主とは俗称で、その法号は波上護国寺の住職(第18代)であった盛海上人という人であった。その弟子に心海上人(第24代住職)があり、彼は組踊「手水の縁」の作者で国家の謀叛罪で死刑になった、平敷屋朝敏の仏教の師匠にあたる人である。
 ともあれ、政治と宗教の権力争いに巻き込まれた事件を題材にした童謡がこのような形で残っているのも沖縄らしいが、昨今はそれを伝える環境が乏しいような気がする。

「山原手間当」歌・嘉手苅林昌、知名定男「山原手間当」歌・嘉手苅林昌、知名定男
(ゴモンレコード GS-12)

 嘉手苅林昌と知名定男のデュオはあるようでそんなにない。その意味でもファンには涎ものかもしれない。一応は師弟関係でもあり、嘉手苅林昌は中学時代の知名定男を地方の公民館などでのライブにも連れ回して歌っていたようでもある。今からすると児童何とかに引っかかるかもしれないけど、ともかくあの頃(50年前の頃)の二人の人気は大したものであったようだ。
 知名定男のソロのリードから始まる歌は自己主張をグングンとするのだが嘉手苅林昌は宥めるでもなしに飄々とソロをとっていく。知名はそうか、とばかりに力みがとれていく。珍しい音源とはこういうものにいうのかもしれない。しかし嘉手苅の包容力は凄い。登川誠仁なら張り合うようなところがあるが嘉手苅林昌は何処吹く風である。しかしそれを意識させる知名定男もやはり凄い。

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2009年04月13日

嘉手苅林昌の十八番「海のチンボラ節」坪山豊の名曲「ワイド節」

ryuQ100歌4月号
 今回は有名な2枚を取り上げたい。すなわち、嘉手苅林昌の十八番「海のチンボラ節」と坪山豊の名曲「ワイド節」のドーナッツ盤だ。どちらもオリジナルというか、一番最初の録音盤となる。

嘉手苅林昌の十八番「海のチンボラ節」「海のチンボラ節/泊高橋節」歌・嘉手苅林昌、小浜守栄
(マルフクレコード FM-224 1960)

 1960年というのはレコード盤がSP(78回転)盤からEP(45回転)へと変わる年である。その前年には普久原恒勇らが、沖縄でのマルフクレコードを立ち上げている。大阪の太平丸福レコードから民謡レコードの拠点を本格的に沖縄に移す年となった。そして60年には普久原朝喜夫妻が来沖している。そしてその時、丸福レコード35周年記念として25枚の復刻盤(もちろんSP盤からの)をプレスしている。そのシリーズがレコードナンバーのFMである。SP盤がプレスされてすぐにドーナッツ盤が出たことになる。
 さて、チンボラ節であるが、先輩の小浜守栄との合唱ということだが、どれが小浜守栄でどれが嘉手苅林昌だか分からないのである。ともあれ戦後の沖縄民謡を牽引した二人のデジタル音源が少ないのは残念だ。

坪山豊の名曲「ワイド節」「ワイド節」歌・坪山豊
(ンナルフォンレコード FF-1017)

 今や奄美新作民謡の代表作「ワイド節」の最初の録音が、沖縄のンナルフォンというのも妙というもの。奄美の新作民謡の本格的に幕開けを告げた記念的作品は作曲も坪山豊(作詞・中村民郎)で、言うまでもなく、活動範囲といい、レパートリーの広さといい、奄美を代表するウタサー(歌手)である。その坪山豊も79歳。ところがどっこいどうして元気ピンピンまだまだお呼びとあらば何処までも三線一丁で出かけていっては歌いまくっている。
 我がいーやーぐゎーの三周年記念ライブ(4月12日)にも奄美からやって来て歌ってくれました。B面の「だれやめ」とは晩酌の事で、一人で静かに飲むというより、語らいながら大いに飲むというものらしい。
(※坪山豊の特別インタビュー記事はryuQ特集ページに掲載中です!

小浜 司の『ryuQ100歌』バックナンバー:
http://ryuq100.ti-da.net/c73392.html


筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。
島唄カフェいーやーぐゎーHPhttp://www.ryucom.ne.jp/users/iyagwa/
  


2009年03月09日

嘉手苅林昌+大城美佐子の琉球丸宮レーベルからのレアな1枚

嘉手苅林昌+大城美佐子「仲間節/川平節」
今回は結構レアな2枚をご紹介。1枚は嘉手苅林昌と大城美佐子の琉球丸宮レーベルからの「仲間節/川平節」。そしてもう1枚が津嘉山京子と饒辺愛子と津嘉山笑美子による「汗水節」のこと。

「汗水節」歌、津嘉山京子、饒辺愛子、津嘉山笑美子
(マルフクレコード KF-194)

「汗水節」 「汗水節」は1928年初代具志頭郵便局長の仲本稔氏が沖縄県学務部社会課が貯蓄奨励の歌詞を募集に当選。曲を沖縄を代表する作曲家・宮良長包氏がつけて発表された作品。いろんな人が歌って、音源も沢山あるが、饒辺愛子に津嘉山京子、笑美子姉妹の合唱はちょっと珍しい。もちろんデジタル音源にはなっていない。津嘉山京子?知らない?では、具志堅京子というと分かる人も多いのではないか。豊見城そばの女将さんで民謡歌手の。アクション三板のパフォーマンスの名手。津嘉山笑美子は妹で、津嘉山姉妹+饒辺愛子と、今で言うと異色ということになろうか。具志堅京子は子育てのために一度芸能活動から身を引いたが、2002年から本格的に活動を再開した。この音源は彼女の十代時のレコード。妹の方は今は歌っていないようだ。

夜半参「仲間節/川平節」歌・嘉手苅林昌、大城美佐子
(琉球丸宮(リュウグウ) MR-505)

夜半参「仲間節/川平節」 琉球丸宮(リュウグウ)というレーベルはレアなレーベルである。場所は糸満市にあった。嘉手苅林昌と大城美佐子も参加している。もともとは舞踊曲で、歌は舞台の袖から地謡として振り付けを見ながら歌っていくものだが、こと嘉手苅林昌と大城美佐子となると歌としての貴重な一枚となりそうだ。もしかしたらこれは踊りの練習のための録音かもしれない。男は士族で女は遊女。男が女にモーションをかけるが、自由のきかない遊女の身を理由に断られるが、ならばここで死のうとする。そこまで思いつめているのならということで男を押しとどめ、手に手を取って帰っていくというもの。「仲間節」は一言、
 サヨ暮らさらん
と語り、「川平節」の伴奏が流れる。そして男の言葉の歌詞をうけて女の語りが、尻取り歌のように返していき、物語が展開していく。昔から歌われている舞踊曲ではあるが、この二人だとその場でアドリブ風に歌っているように思えるから不思議だ。とあるリサイタルでの話。昼の部と夜の部の休憩の時間に嘉手苅林昌が酒を飲んでしまって、夜の部の「川平節」を尻を取らずに本当にアドリブで歌ったら、大城美佐子がこれまたその尻を取ってのアドリブで返して何とか帳尻を合わせた。舞台袖に帰って来て、大城美佐子はかんかんに怒って、嘉手苅林昌にしばらく口をきかなくなった。

小浜 司の『ryuQ100歌』バックナンバー:
http://ryuq100.ti-da.net/c73392.html


筆者プロフィール:小浜 司(こはま つかさ)
沖縄県国頭郡本部町出身。幼少期を那覇市で過ごし、中学以降宜野湾市に遊ぶ。大学卒業後ヤマトへ。季節工などの底辺労働に従事しながら、アメリカ、東南アジア、中国、アラブの国々を旅する。沖縄に帰り、クリーニング屋の経営をしながら大城美佐子や嘉手苅林昌のリサイタルなどをプロデュース。「風狂歌人」(嘉手苅林昌)や「絹糸声」(大城美佐子)など沖縄音楽CDを多数製作。2002年、国際通りに島唄カフェまるみかなーを開く。2004年沖縄音楽デジタル販売協同組合に参画しインターネット三線教室を始める。2006年、拠点を壺宮通り(那覇市寄宮)移し、島唄カフェいーやーぐゎーを開店。沖縄音楽の音源や映像の楽しめる店として好評を博している。
島唄カフェいーやーぐゎーHPhttp://www.ryucom.ne.jp/users/iyagwa/
  


2009年02月09日

「下千鳥」(歌・嘉手苅林昌/マルテルレコード)ほか

ryuQ100歌2月号(小浜司)
今年は嘉手苅林昌さんが亡くなられて10年になります。私のレコード収集も氏のレコードを求めたことに始まります。故嘉手苅林昌のなるべくデジタル化されていないレコードのことなどを交えながらしばらくは語っていきたいと思います。お付き合い下さい。

「ちえーこーじゃー」マルフクレコード
(歌・喜納昌永、山里ゆき子 FS-2 1959)

最近めったに聞こえなくなった「ちえーこーじゃー」。そういえば山里ユキ本人もデビュー曲でありながらなかなか歌わないようだ。曲も分かりやすく、内容も恋歌でデュエットにぴったりなのだが、やはりタイトルがの意味がよく分からないからなのか。それで前にその意味の由来を調べたことがある。東恩納寛惇の著作に「タイ語で白米のことをカオ・チャオと唱へていて、読谷村長浜でとれる白米をヨンタンザ・コージャーと呼んでいる」(ようするに米の一種である)と言う文章に出会った。タイトルを括弧で閉じて現代風のタイトルにすればぜんぜん歌える歌だと思う(そうまでしなくても大丈夫)。ともあれこのレコードは「マルフクレコードの初ドーナツ盤として発売され、ユキの美声は、ラジオから全流に轟き渡ることになりました」(2007年11月30日、山里ユキ芸暦45周年コンサート「命一ち・歌一ち」のパンフレットの普久原恒勇の文章より)という記念すべきレコードなのであります。


「下千鳥」マルテルレコード
(歌・嘉手苅林昌 MT-1010 1965)

「ちえーこーじゃー」「嘆きの梅」「新里前とよー」は同じ日に録音された。嘉手苅林昌、喜納昌永そして山里ユキの3人は、本部から那覇までの車の中で練習して覚えてすぐ録音と言うから凄い。聞き覚えのある曲ならいざ知らずだ。しかし嘉手苅林昌となると録音スタジオで頭の中から歌を絞りだして、その場でうたを語っていく…

 ♪千鳥浜千鳥 ぬがし鳴ちどぶる
   母ぬおもかげぬ 立ちど鳴ちゅみ
  母ぬおもかげや まりまりど立ちゅる
   ありがおもかげや 朝ん夕さん
  千鳥浜千鳥 鳴くな浜千鳥
   鳴きばおもかげぬ まさて立ちゅさ  −下千鳥−

「下千鳥」は別れや悲しみを表現する歌で、歌への情け入れ、すなわち感情移入が重要である。♪千鳥浜千鳥、と語りかけながら絞り出しながら言葉に感情を滑り込ませる嘉手苅節は淡々と語りかけているようでも聴く人の心の中まで響く。数多い嘉手苅林昌のドーナツ盤の中でも名盤の一つだといえる。  続きを読む


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